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旧 新橋停車場跡及び高輪築堤跡【東京都港区】~文化審議会の答申(史跡等の指定等)について~

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2021-08-23 文化庁

明治5年(1872)、我が国初の鉄道が新橋・横浜間に開業した際、高輪海岸沿いの海上に鉄道を走らせるため敷設された鉄道敷。発掘調査の結果、創業当初の築堤や第7橋梁が良好に残ることが判明。我が国の交通の近代化や、それに用いられた土木技術等の歴史を知る上で重要。(明治日本の近代化を象徴する国内初の鉄道)

【解説】
高輪築堤跡は、明治5年(1872)に我が国初の鉄道が東京・横浜間に開業した際、高輪海岸沿いの海上を堤状に埋め立て敷設した鉄道敷である。明治初年の政府内では、大隈重信・伊藤博文などが鉄道建設に積極的な立場をとったが、政府が鉄道建設を決定した後も軍備充実を優先すべきとする反対意見も残っていた。また、汐留から品川に向かう東海道沿いには、旧薩摩藩邸や兵部省の軍用地もあり、用地取得や測量が困難であった。そのため、高輪海岸沿いでは海上に築堤を設けることになったとされる。

高輪ゲートウェイ駅周辺の開発事業に伴い令和2年度に実施された発掘調査の結果、側面に石垣を積んだ創業当初の築堤(高さ3.8m、幅は基底部で17.5m。3線化に伴う拡幅後は21m)と築堤前面(海側)で地固・波除杭として築堤を支えるため施された列状の群杭、通船口ぐちの役割を果たした第7 橋梁のブラフ積み 橋台2基等、築堤に関わる遺構が良好に残っていることが判明した。

イギリスと日本の両方の技術によって造られている点でも明治日本の文明開化を象徴しており、交通の近代化や、それに用いられた土木技術等の歴史を知る上で重要であることから、第7橋梁とその南北に接続する築堤(80m分)及びその北側に位置する築堤(40m分)を史跡に追加指定するとともに、その名称を「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」に変更し、保護の万全を図る。

<担当>文化庁文化財第二課

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